梶山祐治さん
トークイベントレポート

2022年9月11日(日)
渋谷ユーロスペース

ユーロマイダン革命(尊厳の革命)

まず、『オルガの翼』の背景となっている2013年11月から2014年2月にかけて起きた「ユーロマイダン革命(尊厳の革命)」の流れについて、整理するところから始めたいと思います。

そもそもウクライナでは、2004年にすでに「オレンジ革命」がありました。ヤヌコーヴィチが当選した大統領選の選挙結果に野党が反発、国内は混乱状態に陥りました。その結果選挙がやり直しになり、ロシアとは距離を置く大統領、ユシチェンコが当選することになりました。ユシチェンコは民主化を期待されましたが、その後ウクライナでは汚職政治が続きました。結局ユシチェンコは次の選挙で敗れ、ヤヌコーヴィチが再度当選しました。これが2010年のことでした。

ところがヤヌコーヴィチ大統領のもとで景気は一向に良くならず、国民の不満が高まっていきます。彼は当初はEUに加盟する素振りを見せており、国民も期待していましたが、2013年11月23日に突然、EUへの加入手続きを停止します。それに対する不満が爆発し、人々がウクライナの中心部に集まり「ユーロマイダン革命」へと繋がっていきます。当初は平和的なデモ活動でしたが、次第に暴力革命の様相を呈していきました。

『オルガの翼』との関連において、ポイントがふたつあります。ひとつは2014年1月16日施行のいわゆる「独裁者法」です。集会の自由を制限する法律が施行されました。映画の中で、ドイツで再会したサーシャが、オルガに「ヤヌコーヴィチの新しい法律は最悪」と言うシーンがあります。その「新しい法律」とはこの独裁者法を指しています。その数日後の同月22日、キーウ中心部のフルシェーフスキー通りでデモ参加者の中に最初の民間人の死者が出ます。これがさらに国民の怒りに火をつけることとなりました。フルシェーフスキー通りは映画の中でも名前が出てきます。オルガの母イローナが暴行を受けて病院に運ばれますが、その暴行を受けた通りの名前がフルシェーフスキー通りです。映画のこうした細部は、実際の出来事に基づいているわけです。

国民の怒りはますますエスカレートしていき、ヤヌコーヴィチは国外に逃亡するまでに追い込まれました。革命後、ロシアによるクリミア併合があり、さらにはロシア系住民の多いウクライナ東部で「人民共和国」が創設されるなどの混乱が続きました。2014年9月に停戦合意が出されましたが、今年に至るまで銃撃戦が続き、今年2月のロシア軍のウクライナ侵攻へと至りました。

「ユーロマイダン革命」と「尊厳の革命」

もう今日いらっしゃる方の中にはご存じの方も多いと思いますが、「マイダン」はウクライナ語で「広場」という意味で、キーウに限らずウクライナ各都市の街の中心を成しています。キーウのマイダンは元々「独立広場」と言われていました。あるウクライナのニュース記事によれば、ユーロマイダンという言葉は、2013年11月21日に初めてSNSに登場したとされています。「ユーロ」はヨーロッパを指しますので、この時期のウクライナ国民のヨーロッパへの志向が反映して「ユーロマイダン」という呼称が誕生したわけです。こうした呼称が誕生した後の11月23日、EUとの自由貿易協定を柱とする連合協定締結が中止となってEU入りの道が絶たれてしまったわけで、国民の怒りが想像されます。その夜、アフガニスタン系ウクライナ人ジャーナリストのムスタファ・ナイエムがFacebookに「今夜、マイダンに真夜中までに向かえるのは誰だ?「いいね」を付けるだけじゃ駄目だ」という行動を促す書き込みをすると、ものすごい勢いで拡散していきました。翌24日には数万人がマイダンに集結し、12月1日には10万人に達したと言われています。これがユーロマイダン革命の発端です。なお、あまり注目されることはありませんが、11月23日以降に人々が集まったのはキーウのマイダンだけでなく、国内各地のマイダンに市民が足を運んで意思表明をしていました。

実はウクライナでは「ユーロマイダン革命」という呼称はあまり使われません。ウクライナ人の友人に尋ねても、ほとんどの人が革命を「尊厳の革命」と呼ぶとのことです。どういうことかというと、1月22日に最初の死者が出て、それ以降多くの民間人が亡くなっていきました。その数は100名あまりに達します。その100人を「天上の百人」として讃える記念碑も各地に建てられています。このように、「尊い犠牲を払って達成された革命」という意味を込めて、ウクライナ人は「尊厳の革命」と呼んでいるのです。

溢れ出る「ウクライナに栄光あれ!」

『オルガの翼』でも「ウクライナに栄光あれ」というセリフがたくさん出てきました。「ウクライナに栄光あれ」は、ナショナリズムの高まりの中で出てきた言葉です。実はこの言葉に対して、ウクライナ人でも冷静な意見を述べている人が多くいます。以下は、ウクライナで高く評価された、『さようなら、シネフィルたち』(スタニスラフ・ブィテュツキー監督/2014年/日本未公開)というドキュメンタリー映画の中に出てくる若者の言葉です。

「ウクライナに栄光あれ!」という言葉は、以前は保守の人たちが発するものだったけど、今では誰もが口にするようになってしまったんだ。

ユーロマイダン革命直後のナショナリズムが高揚した時期に、こうした冷静な若者の声が記録されているのは重要だと思います。

また、『オルガの翼』のパンフレットでも参考文献として挙げた、ユーロマイダン革命に関わった人々の証言を集めた「ウクライナの夜:革命と侵攻の現代史」(マーシ・ショア著/池田年穂訳/2022年/慶應義塾大学出版会刊)という本には、「ウクライナに栄光あれ!」という言葉への反感が次のように記されています。

ポーランドの左派活動家スワボミール・シェラコフスキーは民族主義者の存在を擁護したが、そこがオレクシーらのウクライナ人の友人たちとは違っていた。オレクシーは「ウクライナに栄光を!」というスローガンを嫌っていた。スラボミール(原文ママ)に言わせると、このフレーズは国粋的としか言いようのない意味はもはや失っていたのだが、オレクシーらは彼に同意せず、このスローガンを拒絶した。それでも、左派の若者たちはマイダン革命を通じて勇敢にふるまい、最後の最後までそこにとどまった。(48頁)

ネリア・ヴァコヴスカは「ウクライナに栄光を! 英雄たちに栄光を!」というスローガンを好きだったことなどなかった。彼女にとってそのスローガンは「国家、マチズモ、準軍事的な訓練、急進的な右翼グループの規律のなさ、政治的・社会的なプログラムの欠如を表す空疎なディスクール」だった。革命とはその性格から言ってポピュリズム的なものであったし、複雑なるものを単純化するよう努めるものだ。ネリアはそこも好きではなかった。彼女は犠牲者に栄光を付与することや、英雄や殉教者のカルト的崇拝を怖れていたのだ。それでも彼女は、絶えずマイダンに引き戻され続けた。(77頁)

このように「栄光」を謳ったスローガン自体を疑問視する意見が少なからずありながらも、こうした人々もマイダンに引きつける力がこの革命にはありました。すべては悪の権化であるヤヌコーヴィチを倒すため、ウクライナ人皆が一致団結していたのだと言えます。

追放されるヤヌコーヴィチ

ヤヌコーヴィチは前科があり、いわゆるギャングでした。ウクライナの景気はずっと悪いんですが、自分は豪邸を建てて、汚職政治を代表する政治家として嫌われていました。先ほども言及した、ヤヌコーヴィチが革命のさ中に制定した「独裁者法」には、各種媒体の言論規制、集会組織の禁止、ソ連軍兵士の記念碑を冒涜する行為に対する刑事責任、ヘルメット・マスクの着用禁止など、いろいろな項目があります。『オルガの翼』でサーシャが「ヤヌコーヴィチの新しい法律は最悪」「代わりに鍋を被っている」と言うのは、「独裁者法」でヘルメットを着用することが禁止されたために鍋を被る、ということを言っていたわけです。こうしてユーロマイダン革命では取り締まりが厳しくなっていき、それに反発するようにウクライナ人の国民も次第に武器やレンガを手に取ったりと対抗していきます。それがエスカレートすると、暴力革命の要素を呈していきます。その時スイスにいるオルガは参加したくてもできない、苦しい立場に置かれています。

ウクライナの革命に冷たい西側の反応

オルガの親戚「キーウが危険だという話は本当だな。[…]物を壊す⼈やケンカする⼈がいる」
オルガ「⾃由のためだよ」
親戚「僕らには分かりにくい。EU⼊りを望むのは何のためだ? 極右は凶暴だ」

これはクリスマスの頃に、スイスの親戚の家に集まっているときのオルガと親戚たちの会話です。
オルガの親戚が「キーウが危険だという話は本当だな。物を壊す人やケンカする人がいる」と言います。それに対してオルガは「自由のためだよ」と返すのですが、ウクライナ人としてこれはその通りなのです。親戚は「僕らには分かりにくい。EU入りを望むのは何のためだ? 極右は凶暴だ」と続けます。ウクライナ人には、たとえ民族主義者、極右の力を借りてでも悪の権化のヤヌコーヴィチを追放しなければならない、という考え方がありました。オルガの親戚の言葉が示すように、西側は理解を示さなかったということがありました。当然、この「西側」には、日本も入っていると思います。例えば、2014年2月はまさにソチ・オリンピックが開かれていた時です。多くの日本人はオリンピックに浮かれていたと思いますが、当時ウクライナのニュースがどれくらい報道され、どれくらいの日本人が関心を持っていたのかということを、私たちは内省して考えなければいけないと思います。

『オルガの翼』の言語―ロシア語からウクライナ語へ―

『オルガの翼』では、最初はみんなロシア語しか喋りませんが、次第にウクライナ語の比率が増していき、最後にはオルガのモノローグ自体もウクライナ語に変わります。この変化はマイダン革命当時に進んでいたロシア語からウクライナ語へという、言語の変遷状況を踏まえたものでもあります。ウクライナで実際に言語政策がどのように進んでいったのか、現状を理解するためにも少し時間の射程を広げてお話しします。

2004年のオレンジ革命でユシチェンコが当選すると、彼はロシアと距離をとろうとし、ウクライナ語化を推進する政策に着手します。映画を例に挙げると、ユシチェンコは将来的にすべての外国語映画をウクライナ語で放送することを決定しました。はじめは比率20%からスタートし、翌年70%程度まであげることを目標に試験的に導入されたのですが、しかし2006年の時点においてもこの政策は進まず、観客にもとても不評でした。ロシア語話者が多いウクライナでは、ロシア語の吹替えを求める声が多かったのです。ウクライナ語吹き替えの費用の高さや質の低さなどといった理由もあり、2010年にこの政策は止められます。ウクライナ語化は一度、このように挫折しています。

その後、2012年のヤヌコーヴィチ当選を経て、2014年にユーロマイダン革命が起きました。『オルガの翼』が描いたこの時期、国内では再びウクライナ語化が促進することになります。以前の挫折した時とは違い、ロシアやロシア語に対する反発が強くなっていたので、次々と新しい法案が決まっていきました。2017年、ウクライナ最高議会がテレビ放送でのウクライナ語の配分を75%まで高める法案を可決し、ウクライナ国外のテレビ局が制作した作品の場合、ウクライナ語ではない映画と番組は原則としてウクライナ語の字幕を付けることが義務付けられました。さらに、プライムタイム(夜7:00~10:00の間)に放送するには、外国語の場合は必ずウクライナ語の吹替えが必要となり、ウクライナ語以外で制作された映画や番組は、放送枠の25%は越えないよう定められました。そしてその後も2019年には、行政、サービス、教育、メディアにおけるウクライナ語の使用を保証する法案が可決(ただし、個人的なコミュニケーションでの使用や、少数民族の言語の自由は制限しない)、2021年には行政サービスにおける言語はすべてウクライナ語にすることを定める法律が制定されました。こうして、テレビや映画のウクライナ語の比率がどんどん高くなっていったのです。

「分断される痛みを想像する」

皆さん、ロビーに設けられた『オルガの翼』のコーナーはご覧になったでしょうか? そこに主演のブジャシキナのインタビューを中心に映画関連の記事がまとめられています。私も同席させてもらいました。ブジャシキナは今彼女が演じたオルガと同様、奇遇にもスイスにいて、早朝にインタビューを4日間連続で行いました。インタビューが始まる時、ウクライナ人通訳がブジャシキナにロシア語とウクライナ語のどちらで話すかを尋ねました。この最初の質問だけウクライナ語でした。質問に対しブジャシキナは「ロシア語で」と答え、以降、インタビューはロシア語で進みました。

通訳を務めたのは私の友人で、キーウ出身のロシア語話者です。家族とは常にロシア語で話しています。ブジャシキナはロシア語話者が多いドンバス出身です。もちろんふたりともウクライナ語を話すのですが、ロシア語というのはお互いちょうど都合がよかったわけです。しかしこの会話は、通訳が日本にいて、ブジャシキナがスイスにいるからこそ出たものなのかもしれません。というのも、今はさらにロシア語に対する排除が強まっていて、公の場で話す事がためらわれる状態になっているので、もしウクライナの公の場であれば、ウクライナ語で済ませるということもあったでしょう。

『オルガの翼』ではロシア人コーチが拒絶されていた姿が大変痛々しかったですが、日本人がウクライナのことをどう見るかと考えたときに、当事者ではないからこそ、冷静に距離を置いて、分断される痛みをひとりの人間として想像することができると思うのです。映画というのは、スクリーンに現実を表象して観客がそれを体験することができる。映画館で映画を観るのは、その体験に没入することです。『オルガの翼』は現在のウクライナに直接つながる歴史の流れを体験することができるという点で、たいへん素晴らしい作品です。ユーロスペースでの上映はまだ続きます。全国での上映もこれから始まります。日本では早くもウクライナへの関心が薄くなってきていると感じますが、関心を呼び戻すためにも、ぜひ周りの方々と本作のことを話題にしていただければと思います。ご清聴ありがとうございました。

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