矢田部吉彦さん
トークイベントレポート

2022年9月4日(日)
渋谷ユーロスペース

『オルガの翼』を最初に見たのは去年ですから、戦争が始まる前でした。もちろんウクライナはそれまでにも戦争をしていましたが。作品を見てまず本当に素晴らしい青春映画であると思いました。そしてなんとなく遠い意識で「そうか、2014年にこういうことが起きていたのだな」と思って見ていたと思います。やはり去年見るのと、今年見るのとでは全然印象が違います。この作品では2013年の暮れから2014年の頭までが描かれていますが、それまでに何があったかも含めて、簡単にお話ししたいと思います。

『オルガの翼』に至るまで
~ウクライナ国内で続いてきた「革命」~

ソ連が崩壊して1991年にウクライナは独立しましたが、しばらく経済も安定せず国はかなり混乱が続き、96年に憲法ができました。大統領と首相を置くという制度が確立されてレオニード・クチマが大統領になります。クチマは非常に評判が悪く、腐敗は進むし経済も混乱したままでした。腐敗という意味では「オリガルヒ」という言葉をみなさんよく耳にしていると思います。共産国が崩壊し、その後民営化のプロセスの中で金持ちになっていった富裕層、政治にも影響を及ぼすようになった実業家たちが存在感を増すわけです。オリガルヒとの関係で当時のクチマ大統領の汚職も進んでいきました。

そして2000年、ジャーナリストのゴンガーゼさんという方が殺されます。彼は政府批判、反政府的な記事を書いていました。彼の殺害にクチマ大統領が関与していたのではないかという疑惑が大きな問題になり、疑惑を証明するような録音が暴露され、大きなデモが起きました。革命的な大きなデモというのはウクライナで何回も起きていますが、2000年のこのデモが最初の大きなデモの一つで、「クチマのいないウクライナ」をスローガンにデモが広がりました。

2002年に議会選挙があり、クチマの系統をひくヤヌコーヴィチ、そしてユシチェンコという対抗馬が立候補します。選挙では記者の殺害事件もあったことから、「言論の自由」が大きな争点になったそうです。結果、ヤヌコーヴィチの与党が勝利したものの、野党ユシチェンコ陣営も大躍進を遂げました。「ヤヌコヴィッチ‐ユシチェンコ」という対立軸ができて言論の自由もかなり前進したと言われています。2003年、同じく旧ソ連の隣国ジョージアでとても平和的な、「バラ革命」と呼ばれる革命が起きます。野党がバラの花を持って議会を取り囲んで大統領を交代させた平和革命です。その影響がウクライナにも及んだのだろうと言われています。

2004年の大統領選で、再びヤヌコーヴィチとユシチェンコの一騎打ちになります。2004年の大統領選でヤヌコーヴィチが当選するのですが、投票の不正が判明し、大きなデモが起きます。これが「オレンジ革命」と呼ばれるデモです。対抗馬のユシチェンコのイメージカラーがオレンジだったということでそのように呼ばれています。そこから司法を巻き込んだ議論を呼び、結局投票のし直しが実現し、ユシチェンコが大統領に当選しました。このようにオレンジ革命は、大統領を交代せしめたということで成功を遂げます。しかしその後ウクライナがまとまったかというとそうでもなく、ユシチェンコ大統領はあまり国内を改善することができず、汚職も止まりませんでした。ウクライナ語の教育をウクライナに定着させた、という点では功績があると言われているようですが、最終的には人気を失い2010年の大統領選挙でヤヌコーヴィチが当選し大統領になります。

こうしてウクライナは『オルガの翼』の時代設定に入っていきます。先ほど新聞記者が殺されたと言いましたが、汚職の進んでいたクチマ政権で新聞記者が殺されたという背景は、間違いなくこの映画のお母さんの役に投影されています。冒頭、オルガと母親が乗用車で、「ビルがどんどん建つね」と話しているシーンは、裏から市にお金が回っていて不正が行われている、その背景を示唆しています。その後に彼女たちは襲われてしまうわけですが、やはりそれは新聞記者が殺された事件がリンクしていると言っていいと思います。ヤヌコーヴィチが2010年に大統領になり、状況は悪化して汚職は進み、身内に利益を優先するなどして評判を落としますが、さらに2013年11月、彼はEUとの連合協定へのサインを拒みます。仮署名はしたのに本サインをしない、ということで一気に市民の反感を買って大きなデモが起きます。それが「マイダン革命」、この映画で描かれる広場の革命になるわけです。「親ヨーロッパ」ということで「ユーロ・マイダン」とも言われますが、「マイダン」は「広場」という意味で、キーウの広場に10万人規模の市民が集まりました。2013年11月から2014年の2月までの2~3ヶ月間、広場を占拠して民主主義と法治主義を市民が要求していきました。非常に大きな革命と言っていいと思います。

オルガは、革命だなんて大げさだ、なんてお祖父さんから揶揄されますけれども、やはりそれは「尊厳の革命」と言われるほど重要なムーブメントになりました。今回の映画で使われているフッテージは全て当時スマホなどで撮影された本物の映像を集めたということなので、リアルな状況が見てとれたと思います。実際にヤヌコーヴィチを責める運動が数カ月続き、2014年2月にヤヌコーヴィチはロシアに逃げました。彼はロシアに逃げる直前に広場を一掃してしまえ、ということで警察隊に大きな攻撃をさせ、デモ隊が71名、警察も20名、約100名程が広場で死んだと報じられています。広場の混乱というものはさぞかし大変なものだったのだろうと思いますし、お母さんの映像から流れてくる騒ぎというのは本当に命を懸けたものであったということが言えます。ヤヌコーヴィチが退任し自動的に大統領職も解かれその後を継いだ大統領がEUとの協定にサインしました。マイダン革命はこの部分については成功したと言えます。しかし皆さんご存知のように、ヤヌコーヴィチが海外逃亡したのとほぼ同時にプーチンはクリミアの併合を実行し、ウクライナ東部、ドンバス州の二つの地域が自称共和国として分離させられることで、ウクライナ国内はズタズタになっていくわけです。ですからマイダン革命が払った代償は大きかった、ということはもちろん言えるわけです。とはいえ、2014年から東部の戦争、クリミア併合というような状況が起きていますが、全体として見るとウクライナとしては小康状態を保ち、『オルガの翼』の最後に出てくる2020年の平和そのもののキーウの風景というのは、まさに本当にあの時期は平和だったということが言えると思います。2019年の大統領選挙は、国内で戦争が起きている状態であるにも関わらず、通常通り実施され、ゼレンスキー大統領がヤヌコーヴィチや対抗陣営とは全く違うところから現れて圧勝し、大統領に就き今に至るということです。そしてその状況に続くのがこの映画の背景です。

マイダン革命以後を描いたウクライナ映画

2014年のマイダン革命をフィクションの中に織り込んでいくということについて言えば、『オルガの翼』は、これほど映画としても楽しめながら、当時の状況もよく知ることができる作品は他にないと思います。もちろんウクライナでも戦争の映画は多くつくられていますが、ジャンル映画やB級映画であったりとあまり我々の目に届かない作品が多い中で、この2014年を描いた『オルガの翼』は貴重だと思います。

今年3月に「ウクライナ映画人支援上映会」を主催した際、ヴァレンティン・ヴァシャノヴィチ監督の『リフレクション』を上映しました。この作品も2014年のマイダン革命直後の世界を描いていますが、『オルガの翼』では戦争はまだ始まっていません。2014年直後からの状況を描いたのが『リフレクション』です。あるいはセルゲイ・ロズニツァ監督の『ドンバス』(2018年)も、ドンバス地方で2014年以降どういう形でウクライナが傷ついていったかということを、実話をもとにしたフィクション、本当に皮肉でブラックな寓話として描いていて、非常に面白いです。8月に公開された『ウクライナから平和を叫ぶ』(2015年)もあります。2015年に悲惨な状況になった東部ウクライナの状況を捉えたドキュメンタリーです。写真家の監督が撮った作品で、リアルな姿が見えます。

3月にロシアによるウクライナ侵攻のニュースに接したとき、プーチンが「ウクライナをファシストから解放する」ということを言っていて、どういうことかと思いましたよね。僕はそう思ったのですが。やはりマイダン革命は純粋な市民革命であり、キーウの市民が民主主義に対して起こした動きだったのですが、もちろん欧米諸国のバックアップがあったり、一部極右が暴力的に物事を進めたりということがありました。あくまで市民革命であったにも関わらず、そういった欧米のバックアップや極右の動きなどをひっくるめて「ファシズムだ」ということをロシアはその後の侵攻の言い訳に使っていました。それが今年2月末の侵攻の大義名分にもなっていました。『ドンバス』や『ウクライナから平和を叫ぶ』というドキュメンタリーを見ると、初期の頃から市民たちは、「ファシズムがウクライナを牛耳っているので、ファシズムを追い出さなければいけない」というプロパガンダに完全に洗脳されているということがよく分かります。今年出てきた大義名分ではなくて2014年からずっとその言い方で、ある一部の、特に東部を中心とした人々は洗脳されているのだというのが映画を観るとよく分かります。ですので、こうした他のウクライナ映画も参考にしてほしいと思います。

タテとヨコの映画

『オルガの翼』は、まずは青春映画としてとても優れているということに惹かれます。エリ・グラップ監督はこれが長編一本目ですが、短編をいくつか撮っており、クラシックダンスのドキュメンタリーも撮っています。本人もクラシックダンスをやっていて、その意味では今回の「体操」という肉体を使ったパフォーマンス、あるいは「肉体の自己表現」といったものに対して強い関心を持っている人です。また、オーケストラの短編ドキュメンタリーも撮っており、その際にウクライナからスイスに亡命したバイオリニストの少女が取材したオーケストラにいて、彼女の話を聞いたときに彼女の物語と、肉体でパフォームしていく物語を繋げれば、個人の物語と大きな社会の物語を繋げた自分の世界を描けるのではないか、ということで『オルガの翼』に繋がったと言っています。なるほどと思います。体操を選んだというのは非常に秀逸だと思います。

体操競技というのは本当に常人離れしていて、我々が真似しようにも一ミリも真似できない異次元のことをやっているスーパーな人たちの中でも彼らなりの悩みがあり、その等身大の描かれ方がリアルですし、等身大でありながらやはり親から離れ友達から離れ、しかも故郷で起きていることに参加できないもどかしさや後ろめたさや寂しさ、孤独のようなものを表現するためにオルガは宙づりになるわけです。ですからやはり鉄棒で宙づりになる不安定な状況というのは、そのまま彼女の心情を表していると思います。バク転でベッドに乗るシーンが大好きで、映画史上あんなに素晴らしいベッドの入り方はないと思います。

また本作は不思議な画面サイズだったと思うのですが、ユーロスペースのの支配人と「これは縦と横の映画だね」というを話しをしました。上昇と横移動、逆立ちをしたと思ったら今度は横にダッシュ、ということで、映像は落下、ジャンプ、上昇、下降といった動きが多いです。スクリーンサイズは非常に不思議な、微妙にスタンダードサイズに近い映像サイズが採用されていて、対象の動きを上手く捉えるカメラワークがこの画面サイズの選択によって実現しています。さすがに役者にあの体操演技をさせることは不可能ですので、体操経験者を監督がスカウトして、実際にウクライナからスイスに移住したという今20歳くらいのアナスタシア・ブジャシキナが演じています。彼女は元々体操選手で、その後サーカスのパフォーマーなどをしながら生活しています。2014年当時は東部にいたので東部の戦闘から逃れてキーウに、そしてまた今回の戦争でポーランド経由でスイスに逃れたという方です。彼女は本当に初演技とは思えないほど迫真の存在感で、サーシャ役のサブリナ・ルプツォワもそうですけれども、素晴らしいです。

ウクライナでは、ロシア語なのかウクライナ語なのかということがアイデンティティに大きく関係する問題で、国語教育については常に大きな議論になるそうです。この映画では舞台がスイスという点も面白くて、スイスもイタリア語とフランス語、ドイツ語が公用語です。(フラマン語などもありますが。)オルガがスイスの合宿所に行っても多国語が話されていて、ウクライナ語、あるいはロシア語を話す彼女は、よそ者のようでいてよそ者でないという不思議な空間に身を置いていて、スイスというロケーションが絶妙だと考えさせられました。監督はフランス出身ですがスイスに住んでいるということで、スイスが選ばれているということでもあります。

オルガにとっての「広場」 マイダン

観るたびに素晴らしい映画だと思いますが、僕が特に見事だと思うのは終盤のシーンです。最後に混乱を経た広場、マイダンが映ります。そしてそのマイダンに大きい体育館がオーバーラップしていくのが終盤のシーンです。つまりオルガにとっての広場、マイダンというのは体育館なわけです。ですので彼女は自らのマイダンである体育館であえて怪我した足を傷めつけ、キーウのマイダンにいるサーシャと痛みを共有するわけです。そこで見事にこの話が繋がっていて、オルガのマイダンである体育館の痛みと、サーシャの痛みをあそこで繋げたという点でも、見事な作品だなと思った次第です。

またこれだけ充実した内容で90分を切っているということが素晴らしいと思います。省略が非常に効いていて、余計な途中の経過は一切入れません。車がぶつかった、事故だ、次のシーンはスイス、そしてもうすぐ欧州選手権。次へ次へと流れていきます。しかし、何かが端折られている印象は全く受けません。この編集の上手さは長編一作目とは思えません。90分でこの満足感は大した技術だと思います。色んな意味での見ごたえがこの90分に凝縮された、観れば観るほど面白い作品だと思います。

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