沼野恭子さん
トークイベントレポート

2022年9月10日(土)
渋谷ユーロスペース

まずは、ご存じの方が多いとは思いますし、さほど難しい映画ではありませんが、作品の背景(ウクライナ事情)をごく簡単にご説明して、それからこの映画のみどころといいますか特徴として、①事実と虚構、②二重写し、③コントラスト、④言語の問題、⑤コミュニケーションの問題を順番に取りあげてみたいと思います。とはいっても、これらは互いに関連しあってもいます。

作品の背景について

映画の舞台は2013年から2014年にかけてです。ウクライナが独立したのは、ソ連が崩壊した1991年。それまでの長いあいだ、ウクライナはロシア、あるいはもっと前ですとポーランドから独立したいと、長い間そのときどきの支配者に対して抵抗したり、蜂起したり(反乱を起こすことですね)してきました。しかしなかなか支配から脱することができず、独立ということが長年の悲願だったわけですね。本作のパンフレットにもウクライナの歴史が簡潔に書いてありますのでご参照いただければと思いますが、リトアニアやポーランドは非常に大きな帝国をなした時期がありますので、それらの国に支配され影響を受けたりもしています。実際にウクライナ語の中にポーランド語の影響がずいぶんあるのではないかと思います。ウクライナはその後18世紀にロシア帝国に組み入れられてしまうということで、いつもどこかに支配されていたわけです。やがて1917年にロシア革命が起こってソ連の共和国の一つに組み入れられました。1991年にソ連が解体したときにようやく、長年の願いが叶って独立したわけです。ですから、まだ独立して30年あまりということになります。

2000年代に、独立したウクライナは、EUと連合協定を結ぼうとします。ところが当時のヤヌコヴィチ大統領は当初、協定に署名するかに見えましたが、結局署名を拒否してロシアと接近しました。そのため「約束が違う」と怒った市民が、大きな反政府デモを行います。それがまさにこの映画の背景の2013年です。2013年11月頃反政府デモが始まります。12月にはウクライナとロシアの間で資金調達に関する協定が結ばれてしまいます。それでますます運動に火がつきます。映画の中でオルガがスイスで練習に励んだり、スイスの親戚の家にクリスマスで行ったりした頃、まさにあれが2013年の冬ということになります。

年が明けた2014年1月から、マイダンの集会はしだいにエスカレートしていき、かなり暴力的になっていきます。2月中旬から下旬にかけて「ユーロ・マイダン革命」と呼ばれる衝突に発展します。「ユーロ」はヨーロッパ、「マイダン」は広場という意味です。映画では、オルガの友達のサーシャが、マイダンの衝突が激しくなり人が死んでいくのを目の当たりにし動揺している場面がありました。それがまさにこの頃ということになります。その後ヤヌコヴィチはロシアに逃亡し、ご存じのとおり、この直後の2014年3月、ロシアは強硬なやり方でクリミアを併合するという流れになっています。そして、2022年、ドネツクとルハンシク州を国家として承認し、直後の2月24日にロシア軍がウクライナ侵攻を開始しました。

事実と虚構

以上の歴史的背景を頭の片隅に入れていただくと、マイダン革命という現代ウクライナのリアルな現実(事実)と、オルガのドラマ(虚構)が相まって、スピード感のある物語を展開していることがわかります。オルガは体操選手として超一流の選手なわけですが、競技大会で優勝したいという、スポーツ選手として当然の夢を持っています。マイダン革命を描いている部分は、実際にマイダンにいた人たちがスマホで撮った映像を使っていますので、その意味では、ドキュメンタリー的な側面もあると言えます。

この時期、キーウのマイダンに実際に毎日通って日記をつけていた作家に、キーウ在住のロシア語作家アンドレイ・クルコフ(1961年~)がいます。彼はレニングラード生まれのロシア人ですが、3歳のときに家族とともにキーウに移り、以来ずっとキーウに住んでいます。彼は邦訳「ペンギンの憂鬱」(2004年/沼野恭子訳/新潮社刊 ※原題はもともと「第三者の死」だったが、後に「氷上のピクニック」と改題)という小説で国際的に有名になりました。クルコフは民族的にはロシア人で、執筆言語もロシア語ですが、ずっとキーウに住んでいるので「自分はウクライナの作家である」と自己規定しています。今もキーウでキーウやウクライナの惨状を伝えています。クルコフは2013年11月から翌年2014年4月までの5か月間に書き留めたものを「ウクライナ日記」(2015年/吉岡ゆき訳/集英社刊 ※原題は「マイダン日記」)というノンフィクションとして発表しています。映画の背景、事実をもっと知りたい方にはこの本をお勧めしたいと思います。

『オルガの翼』に戻りますと、マイダンのドキュメントを背景に、オルガという15歳の多感な時期の少女を主人公にしたドラマが展開していく。オルガの物語は、ある程度実際にあった話をもとにしているかもしれませんが、物語としては非常にドラマティックで、あくまでもフィクションです。この事実と虚構が非常にバランスよく共存しているところが、まず大きな特徴だと思います。

二重写し

このように、実際のマイダンの映像を用いて、オルガの体操の世界のドラマとドキュメントを交互に映し出しています。体操競技の躍動感もあり、かなりスピーディに場面が切り替えられていくところが、スポーツを扱った映画らしくて秀逸だと思います。事実だなと思うと今度はドラマというように、ポンポンポンポン場面が入れ変わっていきます。そしてそれがある時本当に二重写しになります。どの場面かというと、競技が行われる第三国でオルガがサーシャと再会しますよね。そこでサーシャの話を聞きながらふたりでマイダンに思いを馳せている、その背景がマイダンの映像になっています。そしてふたりでマイダンを思い合っている姿が前景になっている。これまでは順番に映っていたものが本当に二重写しになっているという、ここがドキュメントとフィクションが収斂した場面だと思います。

私は、映画のコメントとして「母の国ウクライナの革命と父の国スイスの体操ナショナルチームの間で引き裂かれるオルガ」と書いたのですが、場面の切り替えですよね。常にふたつの場面が交互に切り替えられていくため、頭の中ではウクライナの現実と、オルガのいるスポーツの世界の残像が残っているわけですね。それが先程の場面で一つに結合、収斂したようになるという、ここの演出が非常に見事だと思います。

とくにオルガがスイスに渡ってからは、母とのテレビ電話、友達のサーシャとのテレビ電話、スマホやパソコンの画面で映し出される実際の映像からマイダン革命が次第にエスカレートしていく様子が伝わってくる。これらがすべて観客の想像力の中で、自然に二重写しになっている。常に観客はウクライナの現実とオルガを思い浮かべているということになるわけです。

オルガの心の迷いの振幅が最大限になるのもこの二重写しの場面だと思います。すべてのものがこの場面で収斂し、増幅されていく。そしてこの場面で耳を澄ますと、ウクライナの国歌が流れています。その歌詞は「自由のために身も心も捧げよう、コサックの証を示そう」という内容です。コサックとは、ロシアやポーランド、リトアニア国家のあまりの圧政に耐えられずに逃亡した農民たちです。彼らはそのうちドン川やドニプロ川の流域に軍事的共同体を作ります。次第にロシア帝国などはコサックを自分たちに取りこんで、辺境を守らせるという利用の仕方をしていくわけですけれども。彼らは自分たちでコミュニティを作り、守っていかなければならないということで、自由を重んじる、独立不羈の人たちであるというところが特徴です。ウクライナの人々は、自分たちが自由と独立を重んじるザポロジエ・コサックの末裔であることを誇りにしています。自分たちのアイデンティティはコサックであると考えている。そしてそれが国歌に謳われているということなんです。国歌が先程の二重写しの場面で背後に流れているので、すべてが収斂している場面ということなんです。“国歌を歌う”ということはコサックであるという自分たちのアイデンティティを確認する、ある意味で愛国的、ナショナリスティックな気持ちを鼓舞する営為でもあるだろうと思います。面白いのは、だんだんサーシャは愛国的な気持ちが強まっていき、最初ロシア語で話していたのがウクライナ語になっているということです。

二重写しというキーワードでもうひとつ大事なのは、この映画は2020年にクランクアップしています。つまりロシアによるウクライナ侵攻以前に作られた作品なんですね。見ている私たちは、どうしても今の現実と、この映画の当時の現実というものを二重写しにして見ることになりますよね。侵攻後のキーウその他のウクライナの破壊された都市をしばしばニュースで目にする現在の私たちには、映画の中の美しかったキーウの町と、テレビやネットで見る爆撃されたキーウの町が二重写しとなっています。これは、監督も予想しなかった新たな、国際情勢が変わった故に起こった二重写しということになろうかと思います。

コントラスト

この映画には様々なコントラストがあります。あとでもう少し詳しくお話しする、「ウクライナ語かロシア語か」という2つの言語の問題、「スポーツか政治か」という問題、「私的な生きがいを追及するべきか国の独立を優先するべきか」、つまり「個人か国家か」という問題、そして「ウクライナかスイスか」という問題。これらが絡み合ってオルガの前に立ちはだかっています。さらに、ジャーナリストの母と体操選手の娘という葛藤、というコントラストもあり、コントラストがじつに鮮やかに描かれています。母と娘の物語としても面白いのですが、互いに自分のやっていることが大事で相手の言うことをあまり聞いていないという場面が二度くらいありましたよね。ただし、ふたりとも「戦士」という共通点があります。進んでいく道は違っていても、「戦う女」という意味では共通していると言えると思います。

さらに、元ウクライナ・チーム所属だったコーチのワシーリーがロシア・チームに移籍するという話がありました。彼はオルガに「スポーツと政治は別だ」とはっきり言っていましたよね。ワシーリーの態度表明に対して、サーシャはどうかというと、大会で跳馬の最中に自分の競技を中断して、政治的な立場を世界に向かって明らかにしたわけです。つまり「スポーツと政治は一緒だ」という立場ですよね、ワシーリーとは全く逆の立場で、ここでもコントラストをなしているわけです。

また、映画の手法としても様々なコントラストが見られました。それは、明るさと暗さ。喧騒と静寂。これが非常にうまく描き分けられていました。たとえば早朝のまだ暗い時間にオルガがランニングをしている姿。それから非常に明るいキラキラした場面がある、その切り返しが非常にうまくできていると思いました。また特に体操の競技大会の喧騒と、その後さっと音が止み、段違い平行棒のシュッシュッという音だけになる、みなさん、あれはとても印象的だと思いませんでしたか?静と騒のコントラストもうまく描き分けられていたと思います。本作が非常にメリハリの利いた作品だと感じられるのは、こうした様々なコントラストが組み合わせられているためではないかと思います。

言語

冒頭の、オルガとサーシャと男の子たちが競争する場面。あのシーンではロシア語で話しています。学校ではロシア語で話されていたんだということがわかります。オルガと母の会話はすべてロシア語です。テレビ電話の時も車で移動するシーンもそうでした。その後スイスに行ってからはドイツ語かフランス語で話さなければいけないことになり、オルガは一所懸命フランス語を話します。サーシャは途中からウクライナ語を話しています。これは彼女がマイダン革命に参加し、愛国的な心情を強めたことを表していると思います。SNSのニュースもウクライナ語のようです。母が重体になってオルガが必死で容態を聞いている場面はロシア語です。サーシャと話す時のオルガは、サーシャがウクライナ語なのでそれに続けてウクライナ語を話していますが、一か所、ロシア語のセリフがあります。「でもわかるでしょ、私だってあなたたちとそこ(マイダン)にいたいの Но ты знаешь, я тоже хочу быть с вами」というセリフです。これは色々な解釈ができると思いますが、思わずほとばしる心の叫びは、最も使い慣れた母語のロシア語で出てくるということなのだろうか、と思います。

このように、ロシア語とウクライナ語が現実に即して使い分けられていて、リアリティがあります。
ご存じかもしれませんがウクライナ語は19世紀にはロシア人に見下されていて、ロシア語の一つの方言とみなされていました。19世紀のロシアでは、ウクライナのことを「小ロシア」と呼んで、小ロシア語は大ロシア語つまり現在のロシア語の方言だと考えていた人が多かった。現在では、ウクライナ語はロシア語の方言ではなく、れっきとした独立した言語であると認められています。両方とも東スラヴ語族という同じ語族に属していますが、別々の独立言語ということです。

コミュニケーション

言葉の問題とともに大事なのがコミュニケーションあるいは相互理解の問題です。母と娘は、心は通じ合っているけれども今一つかみ合っていない。これは思春期の女の子だったら誰でも感じるような、「親と何か話が合わないな」というようなことなのかもしれません。ふたりの会話は途切れてしまい、深くは理解しあえない。オルガはいつも母が自分の話を聞いてくれない、あまり体操に興味を持ってくれないと不満に思っているようです。

また、スイスに行ってからは、フランス語かドイツ語でないと通じません。オルガはフランス語を少し話せますが、チームのメンバーの言うことがいま一つわからなくて疎外感を感じている。スイスの親戚たちにはウクライナの現状をわかってもらえず、もどかしい思いをしている。面白かったのは、スイスチームで友達になったゾエとスマホの自動翻訳アプリを使って会話するシーンです。このシーンはすごく現代的だなと思いました。機械翻訳は時々とてつもなく滑稽な誤訳をするので笑っちゃうという、それで二人が仲良くなるという場面です。ここは、非常に深刻な内容を扱っている本作の中で、非常に救われるというかユーモラスな、いい場面だなと思いました。

以上、本作の特徴についてお話ししてきましたが、コントラストも、コミュニケーションの不安定さも、オルガの迷い、悩み、逡巡、焦りなどをあらわすのに役立っています。思春期の人にある心の揺れというのは普遍的なものです。二つの対極のはざまで引き裂かれそうになるということは、オルガでなくとも誰しも大なり小なり経験してきたと思います。そうした普遍的な側面と、オルガという具体的な個別のひとに焦点を当てて、しかもこれだけ現代の情勢を取り込んでひとつの映画にしたという。監督は現在28歳と聞きましたけれども若いのに実に見事な作劇だと思いました。皆さまはどうお感じになったでしょうか。ご清聴ありがとうございました。

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