トークイベント

長倉洋海さんトークイベントレポート

2022年12月3日(土)
シアター・イメージフォーラム

Q. 長倉さんと言えば、フォトジャーナリストとして紛争地に生きる様々な人々の写真を撮っていらっしゃるイメージがありますが、本作をご覧になっての率直なご感想をお聞かせください。

A. 一言で言えないぐらい、心に響くというか落ちるというか。「考えさせられる」んじゃなくて、私が考えたものがたくさんそこから出てきました。映画としてすごく深いなと。山村というか本当の田舎で暮らしている人たちで、ここに映っている人たちは孤独だと思うんですね。例えば、家族があんまり映ってこない。カップルはほとんどいない。一人で生きている。孤独に負けないというか。誰でも孤独だと思うんですけど、それに打ち克った顔っていうんですかね。その強さというか、それがこの映画の中にあるんじゃないかな。どうして孤独に打ち克てるのか。監督の言葉の中に「宇宙」って出てきましたけど。一人ひとりが自分の宇宙を持っていて、そことつながっている。周りにあまり動じないっていうか。みんなで一緒になにかやるとか、世の中がこうだから、とかは言わずに自分だけの世界をしっかり持っている。それは結果だと思うんです、孤独だったり、孤立する中で自分で作ったものだと思うんですけど、それがやっぱりすごい。

見た目は老木ですよね、木で例えれば。老木なんだけど、そこに葉が茂り、花が咲いている姿がしっかり映っている。老木はもちろん外から見たら、そんなにきれいじゃない。質感も。緑がつやつやしている木の質も、人間と同じで少しずつかさついてきたりするじゃないですか。僕は写真家としては、それをただ見苦しく撮るんじゃなくて、その中で光る瞬間っていうか、キラっとした瞬間をいつも撮りたいと思っています。監督もここで取材した、出会った人たちのキラっとしたものを撮っている。

最初に「映画どうでしたか?」って言われたときに、「スチル写真がすごい効果的でした」って言ったんですが、その組み合わせがすごいなと思ったんですね。スチルって一瞬しか撮れないじゃないですか。動画っていうのはずーっと撮っていく。だけどこの作品のスチルの使い方は、動画の中に挟むっていうよりは、けっこう主体であるところがあって、そのことによって物ごとが止まるっていうんですか、例えば、登場人物の生活の空間。フライパンがあったり、収穫したジャガイモらしきものがあったり、そういう細かいところが、動画だと流れていっちゃう。だけどそこでグッと止めることで、僕たちがよりその瞬間、登場人物たちの表情じゃなくて、周りの空間もじっくり見ることができる。スチル写真というのは音がないので、映画はもちろん音があって本人が喋って、なおかつ動きがあるっていうことで、<いいとこどり>って言ったらおかしいんですけど、ミックスすることによって人間を描く。だからこの映画の目標は、人間を描くっていうことだと思うんです。写真でもそうなんですが、僕の場合は。そのためにどうするかを考えて、その時に動画とスチル、あるいは音声、そういうものを組み合わせることで、波長の違いっていうんですか。光でも波長の違いによって色が変わるみたいなところが当然あって、それぞれの波長を多く組み合わせることで、人物とか、描きたいものを、より立体的に深く描いているんじゃないかなと、そんなことを思いました。

彼らの顔、一言でいえば「魅力的な顔」なんだけど、いやどうなのって。「じゃあこういう魅力的な顔になりたいの?」って言うと「うーん、ちょっと違うよな」って。そう考えると、魅力的っていう言葉とか、よく使われる言葉では言っちゃいけない。彼らは彼らの持っているそれぞれの生き方をしっかり生きている。人に頼らずっていうか、第一に寄り掛かるものもなくて、寄り掛かることができないわけね、ある意味で。「妻とは不仲です」っていうことがあったりして。だけどそこで、しょんぼりして下を向いて、クヨクヨしたり愚痴を言うってよりは、自分が生きてきた、あるいは生きようとする、これから生きていく、一つの何かを彼らは持っていて、そこに自分の生きる様、生きるこれからの姿を重ねるっていうか、根をそこに張っている。監督はこの映画の中で、「彼らはここから切り離されては生きていけない」みたいなことを言っていますが、僕は見たときに、監督に失礼ながら「いや違うんじゃないか」って。大地に切り離されるんじゃなくて、彼らの持っている精神、オリジナルの精神から切り離したら彼らは生きていけないんじゃないかと僕は解釈しています。そういう意味で、僕としてはやっぱりスチル写真の良さと映画の良さ、何よりも、これに出会った監督が、多分ずーっとずーっとこの出会いを宝にして、自分のことを制したと。

何度も何度も(現地に)行ったと思うんですよ。ここに出ている人は多分一部だと思う。取材した人ももっともっといて、その中でどの人をここに登場させるかっていう、まさに監督の宇宙なんじゃないですか。ただ計算していくと、監督は意外と若いんですよ、撮った時。32歳ぐらいなんです。「えー!32でできるの!?と」僕は思った。監督は32で原石っていうか、出会いの原石を手にして、自分がそれをどう磨いていって、どう解釈できるかということを、ずっとずっと自問自答しながら、いろいろ作り変えてきたんじゃないかな。その結果として、登場人物の宇宙でもあるんだけど、監督の宇宙でもあって、それがすごく伝わるなあって感じがしました。

Q. 本作には、マルティン・マルティンチェクという写真家のスチル写真が40枚使われています。モノクロ写真にはどのような魅力があるでしょうか?

A. 写真は一瞬を止めるわけですね。そこのどこに惹かれるか。その人のキラッと光るものは何なのか。あるいは自分が何をそこから感じたのか。感じるものを映しこんだ、出た瞬間に写真を撮っているんですよね。動画っていうのはもうちょっと違って、魅力、あるいは場所をゆったり撮っていくと思うんですよ。長い意味でその人を見せる。だけど一瞬に閉じ込めるっていうか、切り取るということは、すごい判断がいる。それゆえに、その中で生きている表情がすごい。動画では僕たちが見逃してしまう表情が一つに連なっていると。だからそこで一瞬止めることで、最高のっていうか、写真家にとっての最高なんだけど、それを切り取る。カラー写真だと古く見えたり、時代の色がついちゃう。衣裳とか、映っている風景も。モノクロにすることでそこを一回ろ過して、時代を超えて、過去のものでも今のように見えたり、今のものでも過去のように見えたり、そこをタイムスリップっていうのは大げさだけど、そういうふうにできる。それは現実にないものだから。僕たちは色で見ているじゃないですか。だけどモノクロっていうのは違う。そこで時を止め、時をさかのぼるみたいな、そういう面白さがあるから、この映画はやっぱり不朽っていうか、いろいろな世代のそういうところもあるのかなって思ったりします。

Q. 本作は1972年のスロバキアの山岳地帯の老人のポートレートと言えますが、今の日本人がどんなことを受け取ることができるとお考えでしょうか?

A. やっぱり僕が面白かったのは、彼らが寄り掛からない、寄り掛かれない。なぜこの映画が上映禁止になったのかということもなんだけど、グローバリズムと反対だと思うんですよ。あるいは福祉国家というのとも違う。社会主義とも違う。「面倒を見ます、その代わり管理します」になっている。そこで、彼らは面倒を見てもらわないけど、管理もされない。僕たちは寄り掛かるっていうか、年金でも保険でもうなんでも頼る。その方が安心だし。だけどここに映っている老人たち、「老人」って言い方もよくないんだけど、映っている人の魅力っていうのは、それに頼ってない。それは辛いことなんだけど、逆に言うと人として、この中で生まれて死んでいくこともあって、最後「オギャー」という声が聞こえたり、それも一つ終わるということじゃなくて、年をとることは、年をとるって言い方、僕あまり好きじゃないので「死に向かっていく」。当然ですけど、そこまでをどう生きるかとか、どう自分の中で納得できるか。納得はできないかもしれないけど、日々生きていく。淡々と生きながら、なおかつ老木のようなどっしりとしたところ。そしてそこには花も葉もあるというところにすごく惹かれました。

Q. 長倉さんが特に気になった人物はいますか?

A. 最初のアダムとか、いいじゃないですか。お酒が最高の治療薬。僕もお酒飲めなかったんだけど最近少しだけ、あんなバコバコ飲めないですけどね。薪が積んであるのを見て、僕も最近北海道でストーブ焚いてるので。そういう、世の中に頼らないっていうか、何かあっても自分で生きていけるような形にしたいと思っていたり。玉子売りもすごく良かった。転んでしまって割れたのに、「安くしなさい」って言われても「しない」って言う。あの意地を張るっていうか、意地じゃないんだよね。プライドっていうか、だけど「自分はもう死ぬ」っていうことも言っていて、だけど死んで終わりじゃないっていうか、それは先住民の考え方とかにもつながったり。桃源郷って言い方もあるのかもしれないけど、桃源郷じゃないんだな。桃源郷っていうのは離れたところにある、僕たちにないもの。これを見ることで考えさせられるじゃなくて、考えるって言いました。考えることをしないと、自分が思っている桃源郷にも近づけない。桃源郷は僕たちの心の中にきっとある。遠くのチェコスロヴァキアの田舎だけにあるんじゃなくて。僕たちが出会いとか日々の中で自分の宇宙だったり、光る瞬間だったり、どうそれをつかみ取るかで自分の桃源郷ができると思いました。

Q. この映画が作られた時代のスロヴァキアは、政府による検閲や監視が非常に厳しい時代で、本作も16年間輸出禁止となっていました。この作品がそのような時代に作られたということについてどう思われますか?

A. 国家が管理する生と死を、結果的に「俺がつかさどるんだ」、「今日倒れるかもしれない」っていう、それが強さだと思うんだよね。これはやっぱり今の反グローバリズムにもつながるし、世界とつながっていないと安心できないっていうとことも反対でもあるし、国家が管理しようとするものとも反対で、それがこの映画の骨太さっていうか、時を超えて残っていく力じゃないかな、というふうに思いました。

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