
トークイベントレポート 水上文さん (文筆家)
2025/6/15(日)渋谷ユーロスペースにて
本作をご覧になっての感想をお話しいただけますか?
本作は1995年製作の作品ですが、私は1992年生まれなので、この作品では描かれなかったものを見てきている世代だと思います。ですが、本作の中で描かれていることは、世代が違うはずの自分自身の経験ともつながるところがある気がしました。たとえば同性愛が明確には描かれない中で、当事者たちが様々な形で自分たちの姿を映画の中に読み取ったりだとか、ネガティブな表象であったとしても、それを自分がどういう存在かを把握する糧にしているだとか、そういった読み取りのあり方というのは、私自身にも覚えがあります。同時に、社会がすごく変わったなと思うところもあります。本作で、『メーキング・ラブ』(1982年)の脚本家が「同性愛のシーンが出てくると、観客は動揺して出口に殺到した」という話をしていますが、改めてそのシーンを見ると、とてもびっくりしました。もちろん今でも卑劣なことを言う人や、同性愛の描写を受け入れられないという人はいると思いますが、ただ、映画館の観客がみんな出口に殺到するということは、今となってはなかなか考えられないと思います。特にこの10年くらいでポジティブな描写は大変増えたと思いますので、社会は本当に変わったし、変わり得るんだなということを改めて感じました。
本作へのコメントの一節で「同性愛は嘲笑され、検閲され、悲劇としてばかり描かれてきた。けれども、だからこそ解釈は抵抗になる」とお書きいただきました。“解釈が抵抗になる”ということについて詳しくお話しいただけますか?
解釈には様々な形があります。ネガティブに描かれていても、そこからある種のポジティブなものを受け取ることはできるし、そういう読み方は常に存在しています。それは作品を解釈するという営みにおける、とてもパワフルな側面だと思います。と同時に、本作の原作者ヴィト・ルッソ(Vito Russo)の「同性愛は否定的な形でばかり描かれてきた、だからそれを批判するんだ」という姿勢と、本作の中でハーヴェイ・ファイアスタイン(Harvey Fierstein)が述べていた「ネガティブな描かれ方であったとしても、ないよりマシだ」という姿勢は両方重要だとも思います。偏見に満ちた描写であったり、悲劇としてのみ描かれているというのは当然批判されるべきで、それは必要な批判です。一方で、解釈は一つではないし、私たちはただ受け取るだけではなく読み替えることもできる。明示的に描かれていなくても、「これは同性愛の物語だ、クィアの物語なんだ」と読み替えてポジティブなものを受け取ってしまうこともできる。そういう解釈のパワフルさを軽んじないということも同時に重要だと思います。
「解釈が抵抗になる」というプロセスにおいて、一度は否定的に描かれたイメージを受け取る、そこに自分の姿を重ねるということは一時的には辛い体験なのではないかと思います。それを読み替えていく、否定的なイメージを「抵抗」に変えていくための契機となるようなものはあるのでしょうか?
人間の感情って一つではないので、すごく辛いという気持ちと、でもやっぱりこれは自分を把握するための重要なものだという気持ちとの両方が常にあるのだと思います。
たとえば本作の中で、脚本家スージー・ブライト(Susie Bright)が「『モロッコ』(1930年)の男装姿のマレーネ・ディートリッヒが男性も女性もみんな虜にした」と話す場面があります。ルッソはこの“男装する女性”という表象を批判しました。女性同性愛を、“男装する女性”として描くことは「異性愛をただなぞっているようだ」と。しかしスージーは、実際に作品を観た人びとは男装する女性のあまりのかっこよさ、美しさにときめいてしまい、スージー自身、ストーリーラインが持つ同性愛嫌悪的な要素なども飛び越えて、ただただ魅力的に感じたと話していました。解釈のポジティブな力を感じるエピソードです。けれども『噂の二人』(1961年)については、教師のマーサが非常に深い自己嫌悪を吐露するシーンのことを「今では自分は全然違う時代にいて、もっとポジティブに自分をとらえているはずなのに、でもあのシーンを思い出すと涙が出てきてしまう」と言っていて、傷ついている。どんなにポジティブに自分をとらえ直していると言っても、社会の中で傷つけられてきたものの蓄積はあります。でも同時に「ただ魅力的だと感じた」という部分もある。様々な感情が潜在的にあり、抵抗の方法は一つではないのだけれども、その時代状況や、その人の生きてきた軌跡だったり性格だったりによって、取りうる戦略は変わってくるということだと思います。


本作の中で特に印象的だったシーンや登場人物はありましたか?
私は『セルロイド・クローゼット』の後の世代ですし、今は性的マイノリティーの当事者であるということをオープンに明かしたうえで、色んな本や文章を書いたりもしています。「クィアのカナダ旅行記」(2025年/柏書房刊)という本を書いたりだとか、こういった場所でお話させていただいたりだとか。ですから、基本的には、今はポジティブに自分自身を捉えられている、という気持ちで生きています。でも、先ほどのスージー・ブライトが『噂の二人』を観て涙が出てきてしまった、と話している場面を観たとき、思わずもらい泣きしそうになった自分がいたんです。「自分の中にもそういうところがあるかもしれない。そういう部分がまだ消えていないかもしれない」ということを改めて感じさせられました。「様々なことが変わっているにも関わらず、残っている“傷”って何なんだろう」ということを改めて感じさせられて、とても印象に残りました。
クィア表象の変化についてお感じになることをお話しいただけますか?
まず、本作を観た時、登場人物の中に白人の方がとても多いなと思いました。特に脚本家ジェイ・プレッソン・アレン(Jay Presson Allen)が「1950年代はのどかだった。人種問題とかもなかったし平和だった」といった発言をしていて非常に驚きました。当然ですが、1950年代に人種問題がなかったわけではありません。むしろ苛烈な差別が存在していて、それに差別する側は気づきさえしていなかったということですよね。にもかかわらず、95年時点で白人が何の問題意識もなく「なかった」と言ってしまう。そしてその発言がそのままこの作品に載ってしまう。白人中心主義の根深さを感じさせられます。
恐らく『セルロイド・クローゼット』の後に作られている作品は、「同性愛」の中でも人種やジェンダーなどによる違いがあることもう少し意識を向けていると思います。今もし『セルロイド・クローゼット』が作られるとしたら、そういったところにもう少しフォーカスした作りになるのではないでしょうか。
本作には映画草創期から1990年代まで120本の映画が登場します。表現の軌跡を辿るということにはどのような力があるのでしょうか?
表象の歴史、120本の映画の歴史というのは、単に「映画の歴史」というだけではありません。映画における同性愛表象は、「社会が同性愛をどのように扱ってきたか」「どのように同性愛をまなざしてきたか」ということの反映でもあります。ですから本作を観ること自体が、これまで同性愛者がどのように扱われてきたのか、あるいはどのように当事者の人たちが読み替えたり、解釈し直したりして抵抗してきたのか、という軌跡を辿ることだと思います。それはこれまでの社会の変遷、これまでの同性愛者の人たちの歴史を知るということであり、大変パワフルなものだと思います。
映画の話からはそれますが、女性同性愛表象で言うと、ドラマ『Lの世界』ってすごくエポックメイキングなものだったと思うんです。私自身はリアルタイムで観ていたわけではないけれど、『Lの世界』が放送されていた頃のレズビアンコミュニティを知る人から、コミュニティにいかに『Lの世界』の登場人物のような風貌の人が増えたか、という話を聞くこともありました。これもまた表象の力を感じさせられるエピソードです。
表象は、あらゆる人にとって重要なものだと思いますが、特に数の少ないマイノリティーにとっては、マジョリティとは比べ物にならないくらい表象の力を感じさせられる部分があると思うんです。特に性的マイノリティーは人数が少ない上に、普段の生活の中で出会う機会となると非常に限られたものなので、自分自身の似姿を思い描くために使えるものがとても少ない。「存在している」ということさえ、確信を持てずにいる人も多いと思います。そうした時には特に、表象で描かれたことがまさしく現実を作っていくような部分ってあると思うんです。表象は存在を肯定し、現実を形作りもする。だからこそ、マイノリティーにとっては表象の歴史を辿ることが、一層重要な価値を持つのではないでしょうか。
ご存じの方も多いと思いますが、世界的に6月は性的マイノリティーやそのコミュニティの権利の向上、そしてコミュニティを祝うための“プライドマンス(Pride Month)”です。その6月にこの作品を改めて観ることができるようになったのは、とても重要なことだと思います。
日本では特に、2010年代以降に「LGBT」という言葉が広がり、今この作品を観ている渋谷区でもパートナーシップ条例ができたり、様々な成果があったと思います。でも、2010年代以前のこと─―過去の歴史、どのように性的マイノリティーが扱われてきて、どのような抵抗があったのかということ――を知らない方も多いのではないでしょうか。私自身、これまでの運動や歴史をもっと知りたいですし、このプライドマンスにそれを知る機会がある、劇場で観る機会があるというのは、本当にありがたいことだと感じています。作品で描かれていた通り、映画を観ること、解釈することは、抵抗の手段でもある。この作品を観ることもきっと、性的マイノリティーの人たちが今生きている現実を変えていくことにつながり得ると、私は信じています。たくさんの方に観て頂けるように願っています。どうもありがとうございました。