
トークイベントレポート 大塚隆史さん (造形作家/バー“タックスノット”オーナーマスター)
2025/6/14(土)渋谷ユーロスペースにて
今年で77歳になりますが、5歳くらいの時にもう「男の人が好きだ」という自覚がありました。僕は『セルロイド・クローゼット』でも言及されていた、いわゆる“シシー(Sissy)”、“女の子みたいな男の子”だったので、今から70年も昔に「男の子が女の子っぽい」ということは大変なことでした、生きていくのが。
ありがたいことにちょっと勉強ができたもので、それほどいじめられずには済みました。自宅の近くにガラの悪い中学があって、親父から「中学受験で落ちたら、その(ガラの悪い)中学に入れる」と言われ、いじめられることへの恐怖から猛勉強して、何とか受験校のようなところに滑りこんだ。そこはいわゆる“いじめ”みたいのがないところで、何とか生きてこられました。男の子が好きだってことは隠せる、気持ちは見えるわけじゃないから。でも「女の子っぽい」ってことは隠せないんです。男っぽくしてるつもりでも、「なんかなよなよしてる」とか、「いつも腕と脇がくっついてる」とか言われてしまうので、結構悩みました。
“ゲイリブ”を具現化した『セルロイド・クローゼット』
高校生になったくらいの時に、「ゲイリブ」(ゲイ解放運動、gay liberation)というものに出会ったんです。たまたま近くの本屋さんで、英語の本を(読めるわけでもないのに)買い、それがきっかけでゲイリブを知りました。その思想に触れたことで僕は救われて、「男が好きだってことは、別に構わないんだ」と気づいた。ゲイリブの思想が自分の中に入ってくると、男には色んな多様性があり、たとえ“女の子っぽい男の子”だとしても、それは恥じることではないんだ、ということも教えてくれたし、この考え方をもって生きて行けば、恐ろしそうな世の中に出ても闘っていけるかもれないと思うようになりました。だからその後の僕にとって、ゲイリブは生きる支えだった。
最初に『セルロイド・クローゼット』を観た時、「この映画はゲイリブの思想に則って作られている」、まさに「この映画を作ること自体がゲイリブ」だと思いました。映画の出演者たちが「あのシーンは本当はこういう意味だ」とか、「シシーは最初は受け入れられていたけど、単なる笑いものとしてだった」とか、過去からの流れを語るその考え方のベースにゲイリブが流れている。ゲイリブを具現化した映画があるんだと知り、ものすごく嬉しい作品だったんです。


求めていたゲイのラブ・ストーリー
28年前、初公開時のパンフレットに僕が寄せた文章が、今回のパンフレットに再録されていますが、今読んでもぜんぜんおかしくない。本作の中で『メーキング・ラブ』(1982年/アーサー・ヒラー監督)への言及があります。男同士が向き合い、お互いのシャツを脱がせ合って、そしてキスをする。映画の中で、この作品のプロデューサーが「公開当時は針のむしろのようだった」と言っていましたが。僕はこの映画を12回くらい観ているんです。当時は新宿の武蔵野館で単館上映でしたが、あまり客が入らないのですぐに二本立て上映になり、それでも2週間で打ち切られちゃうかわいそうな運命だったんだけれど、僕は毎日のようにそこへ通い、あのキスシーンになると「見た?見た?こんなの撮っちゃったんだよ!」って、この時はもう立ち上がってそこにいるお客さん皆に言いたいくらいだった。当時、男同士の恋愛をまともに描いたゲイのラブ・ストーリーは存在しなかった。それほどのものだったんです。
28年を経た今、思うこと~性自認についての気づき
僕にとって『セルロイド・クローゼット』は映画以上のもの。僕を育ててくれたゲイリブを具現化したような、ものの見方を教えてくれた作品です。そして初公開から28年後の今。あれから僕も28歳、年をとりました。僕はここ2年くらい前から、自分の性自認について考えるようになりました。結論から言うと、自分の性は“ノンバイナリー”なんじゃないか、と思うようになってきたんです。僕は小さい頃“女の子っぽい子”であることを恥じながら生きてきた。ゲイリブの思想に触れ、それも“男の多様性”なんだと自分を納得させてきたけれども、最近になってそれも違うのかもしれないと思うんです。
バイナリーとは「0か1か」というようなはっきり分かれた世界。ノンバイナリーはそのような区分を排し、「その間が連続していて、くっきり分かれている訳ではない」とする考え方です。(どこかの国の大統領は「男と女しかない」と言いましたが、その考え方はバイナリーな考え方です。)僕の場合は「自分は男だ」と思って生きてきたけれども、小さい頃から「女の子っぽい」と言われていることを消化しきれないできました。だから、実は自分は「ちょっとは女の子でもあるんじゃないのか」と考えたら腑に落ち、その方が楽だと思えるようになったんです。
“ノンバイナリー”にたどり着くまで
僕がノンバイナリーにたどり着くためには、実は“トランスジェンダー”と言って「男の身体だけど女」、「女の身体だけど男」、という人がだんだん増えてきて、そういった人たちが自分を解放し、自分のことを語るようになった、という状況の変化があります。「自分じゃないような性を押し付けられて辛かった」とか、子どもの頃からの思いを多くの人が語る。そしてそれを多くの人が読むことができる。そのような状況で、「僕はどうして自分を男だと思って来たんだろう」と思うようになりました。おちんちんがついてるから? でもトランスジェンダーの人たちは、性器がどうかということと、男か女かは関係ないと言います。そうなると、自分の考え方もこれまでとは違ってくるようになりました。
28年前には見えなかった世界
そんな時に本作がデジタル・リマスター版で公開されるということで、もう一度観てみました。僕にとってゲイリブはものすごく切れるナイフのようなもので、このナイフさえあれば、どんなヤブみたいな所でもバサバサ切って前に進める、そうやって生きて来ました。けれども、自分はノンバイナリーだと思ってみると、今までしっかりと見えていたものも裏側にずいぶんほころびがあるなと気づきました。この映画は今でも素晴らしい作品で、自分のことを救ってくれたゲイリブも素晴らしいものだった。ただ、時代は動いていて、この映画を“ノンバイナリーの視点”で見てみると、これまで持っていた思想もいつまでも有効だという訳ではないんだな、ということが見えてきたんです。
「僕も誰かの足を踏んでいたんじゃないか」
今Netflixで『トランスジェンダーとハリウッド:過去、現在、そして』(2020年/サム・フェダー監督)というドキュメンタリーが公開されていますが、この作品は『セルロイド・クローゼット』とまったく同じ作りをしています。トランスジェンダーやノンバイナリーの人たちが登場し、ハリウッドで役者を続けながら、いかにひどい目に遭っているかを明らかにします。僕はこの作品を観て、28年前『セルロイド・クローゼット』を観た頃の僕にはトランスの人たちは全く目に入っていなかったということ、「僕も誰かの足を踏んでいたんじゃないか」、ということに気付いた訳です。
この歳で自分の性自認について考えて、これまでとは少し違うものの見方ができるようになりました。よかったら皆さんも『トランスジェンダーとハリウッド』を観てみてください。この作品に登場するトランスの俳優さんたちは、皆本当に多様で、自分の本心をとつとつと語っているのを見ると、その姿がとても愛おしく感じられる、そういう映画です。『セルロイド・クローゼット』に興味を持って下さる方だったら、この映画は是非見てほしいと思います。これが28年後の今の気持ちです。