トークイベントレポート

『映画はアリスから始まった』
玉川裕子さんトークベントレポート

2022年8月7日(日)アップリンク吉祥寺

映画史と音楽史の共通点①
歴史記述からの女性の排除

私の専門は音楽史なので、今日は西洋音楽ではどういう状況だったのだろうかということと、今回の映画で強く印象に残ったことを、音楽分野のできごとと比較しながらお話したいと思います。
女性が音楽史の中でも出てこないというのは、今拝見した映画と全く同じです。西洋音楽史の中に出てくる女性をどなたかご存知ですか? 小学校や中学校の音楽室に飾られている作曲家たちは男性ばかりで、女性がいません。作曲をした女性がいなかったからというよりは、音楽史の中で取りあげられなかったからです。西洋音楽史は18世紀後半から19世紀にかけて成立しています。性別役割分業が社会の隅々までいきわたった時代であったわけで、女性の活躍が公式の記録に残されるべきものとみなされなかったという事情が非常に大きいと思います。

女性が音楽史の中で言及されることはもちろんあります。でもその場合、創作したもの、活躍した事実ではなく、男性を支えた存在として描かれました。象徴的なのが、クララ・シューマンです。彼女の存在自体は「ロベルト・シューマンの妻」として古くから知られていましたが、もっぱら夫を献身的に支えた妻というイメージで語られてきました。彼女自身が非常に優れた音楽家で、19世紀の音楽史を体現するような存在であるとして、その作品や演奏活動等の業績そのものが知られるようになったのは、専門家のあいだでもここ30年くらいのこと、一般の音楽愛好家のなかではごく最近のことではないでしょうか。

音楽領域が映画と異なる点 女性の嗜みとしての音楽

音楽の分野が映画と違う点も、もちろんあります。音楽そのものは古来より男女ともに携わっていた領域で、古くから女性の職業音楽家もいました。例えば歌手、あるいは高級娼婦とか芸者といった形でプロの音楽家として活躍した女性たちがいました。音楽そのものが女性と親和的とみられたところもあり、近代社会では女性の嗜みとして音楽の素養が求められました。ただし、女性が職業として音楽をやることは時代のジェンダー規範に反することとして難しい状況でした。クララ・シューマンをはじめとして、例外も多々あるのですが。それはともかく、アマチュアとして多くの女性が音楽に携わっていました。アリスの制作した映画の中で、ある男性がある女性を思い浮かべるにあたって、ピアノを弾いている女性というイメージで表現されている場面があって、ちょっと面白いと思いました。ピアノを弾いているという演出によって、お嬢様感が醸し出されていたわけです。

良家の子女の嗜みとしてピアノを弾く女性は、その中途半端さを揶揄されるような状況もありました。しかし他方では、非常に優れた能力を持って音楽に携わっていた女性たちもたくさんいました。そういう女性はプロフェッショナルとして活躍することが制限された場合、家庭やサロン、サロンというのは家庭よりもう少し広がったイメージですが、そのような領域で活躍する場が与えられていました。その代表的な例としてはフェリックス・メンデルスゾーンの姉であるファニー・ヘンゼルが自邸で開催していたコンサートが挙げられます。アマチュア音楽愛好家として、プライベートの領域で活躍する余地があったということが、映画とは違う音楽の一つの特殊性かなと思いました。

作曲行為の特別視と女性

もう一つ、音楽史記述の特殊性が挙げられます。音楽が成立するには曲が作られるだけではなく、演奏され、それを聴く人がいて、さらに例えばコンサートを行うのであれば、コンサートという制度自体の成立も問題になってくる。あるいは楽譜出版や楽器製造といった様々な要因が絡んでいます。ところが少なくともよく知られている音楽史というのは、おおむね作曲家とその作品によって語られています。現在は様々な視点からの音楽史が続々と書かれていますけれども、一般によく知られている音楽史はそういう形のものが、いまだに多いのではないかと思います。これは様々な音楽活動の中で作曲という行為が特別な位置に祭り上げられていったことと関係しています。

とりわけ19世紀、作曲、何かを生み出す、創造するという行為から女性が排除されていきます。女性には創造性が欠けているという言説が、19世紀が進むについて広く流布していきました。先ほども名前を挙げたクララ・シューマンは、活動を始めた19世紀前半は作曲もしていますが、19世紀半ば、1850年代で筆を折っています。その後、いくつかの編曲もの等を除いて作曲していません。原因はいろいろ挙げられますが、当時の社会に流布していた、女性には作曲の能力がないという価値観をクララ自身が内面化していったことは大きいと思います。作曲家が特別な存在に祭り上げられていき、女性は作曲という行為から排除されていく。そして音楽史が特別な才能を持った男性作曲家の生涯とその作品から書かれることが定番化した。そういったことが絡み合う中で、音楽の歴史には女性がいないかのような見方が一般化していった。少々図式化し過ぎのキライはありますが、私は音楽史からの女性排除のメカニズムをこのように考えています。

いかに作曲家の特別視がいまだに社会に残っているか、というのを実感した出来事が数年前にありました。いわゆるゴーストライター事件です。作曲者とされた人物が耳が聴こえないと装っていたり、ゴーストライターがいたという事実以上に驚いたのは、作曲という行為が天から降って来た啓示によって、その創造性がもたらされる、という神話が、NHKのドキュメンタリーでも語られていたことです。作曲家の特別視というのがいまだに強く残っているのかと、びっくりするのと暗澹たる気持ちになるのと、複雑な気分を味わいました。

映画史と音楽史の共通点② 黎明期には女性たちにも開かれていた

この映画を見た時、個人的にとても興味深く思ったのは、初期の映画製作にはアリス・ギイに限らず多くの女性が携わり、特にアリスが特別視されなかったのは女性がたくさんいたからだ、という指摘でした。この話ですぐにあることを連想しました。日本が西洋音楽を取り入れたごく初期の頃から多くの女性が関わってきたということです。その代表として、幸田延と幸田幸という、幸田露伴の妹にあたる二人の名前を挙げたいと思います。音楽に関わっている者にとっては、幸田姉妹は忘れられたとか、なきものにされたということはないです。けれども、例えば滝廉太郎とか山田耕筰といった名前に比べたら一般の知名度は低いとは思います。

これからお話したいのは、そのこととは少し違うことです。日本における西洋音楽の歴史を簡単に言いますと、その発展にあたって大きな役割を果たしたのは、今の東京藝術大学の前身にあたる音楽取調掛と東京音楽学校という組織です。東京音楽学校とういうのは音楽取調掛が発展的に解消して作られた日本最初の音楽専門高等教育機関です。音楽取調掛が最初に西洋音楽を学ぶ者を募集した時、応募してきたのは数からいうと男性よりも女性が多かった。その女性たちがすごく優秀で、そのうちの一人が幸田延でした。彼女は音楽取調掛で教育を受けた後に、アメリカに1年、さらにウィーンに5年半滞在して勉強します。音楽留学生として男女を問わず第一号です。そのくらい優秀で、ヨーロッパで何年か勉強して戻ってきて、すぐに母校、そのときはもう東京音楽学校となっていましたが、その教授に就任し、多くの弟子を育てました。妹も姉に続いて東京音楽学校で学んだ後に、ベルリンに留学してヴァイオリンを専攻し、帰国するとすぐに教授になりました。他にもたくさん女性がいましたので、これだけ見ると音楽というのは女性に非常に開かれた領域だったというふうに見えます。しかし、明治30年代半ばを過ぎる頃より、女性教授陣に対するバッシングが起こり、結局、幸田延は東京音楽学校を辞めることになりました。これはちょうど日露戦争後のことになります。

女性が排除されるようになるのは

しかし、すでに日清戦争後、幸田幸の留学が決まったときのある新聞記事がすごく象徴的です。「留学生というのは才能だけで見るのなら、幸田幸が選ばれたことは確かに相応しいだろう。しかし、留学生に求められるのは、その後日本の音楽界を指導していく立場につくことである。それには女性は相応しくない。それなのに女性を選ぶなどという誤ったことを未だに続けているのは音楽業界だけだ」というふうに非難されています。まがりなりにも富国強兵政策の成果が出てきて、文化にも目を向ける余裕が社会に出てきたとき、それまで女性に開かれていた領域に制限がかけられる。まだ映画が海のものかも山のものかもわからない時代には女性にも開かれていた。しかし、歴史が書かれるほどに映画が成熟してくるとそこから女性が排除される。こういう視点からも、アリス・ギイの物語を考えることができるのではないだろうかと思いました。

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