『異才の人 木下恵介 弱い男たちの美しさを中心に』石原郁子

僕は敗戦から10年ほどの日本映画が好きだ。好きというより愛おしく思う。むろん、その10年の映画をリアルタイムではみていない。みんな1970年以後にいわゆる名画座でみたものだ。

両親の青春時代の様子がそこに〈在る〉という愛おしさも確かにあるはずだが、それだけではないアノ時代の総量を背負っているような感じがするのだった。
 たとえば、俳優さんたちは皆、本物の汗を流している。ワイシャツが汗で肌に吸い付いている。女のほつれ髪が汗の額にへばりついている。映し出される都市の光景にはそこかしこに空襲の残骸が残っている。公園や海岸通りの柵にはコンクリートの柱があっても鉄パイプがなかったりする。それでも皆、必死に働いている。喰うために皆、必死の時代だった。映画は、たとえGHQの検閲があろうとも軍国主義の硬直から抜け出した喜びがスクリーンにみちている。清々とした熱気がこもっている。「民主主義」が無垢の地金のように輝いている。俳優さんの顔だって照明焼けではなく、日に焼けたナチュナルな小麦色をしているような感じがする。
 そんな戦後映画に木下恵介の映画が何本もある。けれど僕がよく記憶にとどめているのは『破れ太鼓』(1949)、『カルメン故郷に帰る』(51)、『女の園』(54)、『二十四の瞳』(54)、『野菊の如き君なりき』(55)といったところか。『カルメン』は幾度かみた。けれど、その後の木下映画とは相性が良くない。〈戦後〉の延長として、『喜びも悲しみも幾歳月』(57)、『楢山節考』(58)を見ているが、それ以後となると、83年の『この子を残して』しか記憶にない。『この子を』を感心して観たわけでなく、木下映画でみた最後の作品としての記憶である。要するに僕にとっての木下映画は、高度経済成長期に入ってからの作品には敬意を払ってこなかったし、関心もなく、『この子を』をみればがっかりした、という印象だった。そんな僕が本書と真正面から対峙できるわけはないが、著者の視座には共感した。
 「私にとって木下は、世界に類のないほど男性優位である日本映画界でほとんど唯一の例外としての〈女性監督〉だった」。「彼が生物学的に〈女性〉であれば、やはりこうした成功はあの時代にありえなかった」「すくなくとも何か〈男性〉でないもの、ジェンダーの越境者、周縁者、あるいは家父長主義・男性優位社会からしなやかに降りた元・男性だ」という点から著者は、木下映画を洗いざらい再点検してゆくのである。
 その木下映画の大半は未見か、見たとしても記憶が雲散霧消しているものばかりだ。著者自身、取り上げる映画の多くが読者の記憶にないだろうという前提で、シノプシスをしっかり押さえるが、その流れに沿って的確に読者を刺激し、立止まらせる。〈ココなんです〉〈この辺りのニュアンスなんです〉と言葉のマーカーをつけて読者に注意をうながしてゆく。かなり巧妙な書き手だが、第1部「歴史の内側で、そして歴史の消滅する地点へ」は、あんまり感心せず読み進んだ。何故なら、木下映画の対極に男ぶりの大きな黒澤明を据える手法はさもありなんと思わせるだけで、さして新味がないと思った。しかし、「いま見直したい十二の作品と主題」という没個性的な章題でまとめられた各論ページ、映画の腑分けに取り掛かるとブラックジャックなみの執刀妙技をみせはじめる。それは率直に女性の視点の重要さを再認識させてくれるものだ。そうした輝く美点を切り取って引用したいのだが、映画と不可分に結びついて語られていて書評の枠のなかでは収まらない。
 戦後10年間の木下映画が僕にはとても輝いているように思えたのは、著者の言葉を借りれば、「男の弱さに新たな未来を託した木下は、同時に、そうした女の強さにも新たな未来を託していたのだ」ということになる。なんとなく、すっきりする。あぁ、そうか「未来」は限りなく明るくて、その疑念の陰りの薄さを好ましく観ていた自分がいるんだな、と納得する。そこでいう「男の弱さ」を佐田啓二とか佐野周二、石濱朗といった木下映画常連の男優たちに託しながら描きつづけ、「女の強さ」もさまざま境遇のなか、性格のことなる女を描きながら説得をつづける。
 戦争の記憶はまだ生々しい。若い兵士が戦場で命尽きる瀬戸際、「天皇陛下万歳!」ではありえず、「おかあさん!」と叫び、愛する新妻の名を呼び、子どもらの名前を数えながら死んでいったという幾多の証言に支えられた木下の映画があるように思う。著者は書く。「実際は情けない人間であるくせに立派なふりをして強がる多くの日本の男性と違って、情けない姿を情けないままに提示し、決して強がらず、かつ、誰もが強がっている時代に強がらないことで自分を貫き通す」男たちをよく描いたのが木下であり、それはそのまま声高にならない〈反戦〉映画となりえた。だから家庭の日常光景を描きながら、木下映画には戦後「民主主義」の芳香が留められているのだろう。
 〈戦後「民主主義」〉とはあやふやな言葉である。高度経済成長時代にカネの重みに耐えかねて沈んでいった言葉である。木下映画にはその〈戦後「民主主義」〉が輝きをもって定着していることを石原郁子さんの本書であらためて確認した。確認を強制された、と言ってよい。そういう力強さをもった本である。
 本書を読了した者は誰だって、〈女性〉をよく描いたといわれる成瀬巳喜男や溝口謙二の映画について石原さんの言葉に耳を傾けたいと思うはずだ。個人的にいえば成瀬の『浮雲』論を読みたいと思った。この映画、男性と女性とでだいぶ見方が異なることが気になっていたから、その橋渡し的な役割を大いにこなせる批評家だと思った。だから、読了して数日後、本書発行人から「数年前、40代で亡くなった」と聞いたときは一瞬、言葉を失った。仕事を惜しむ、という言葉は若くして鬼籍入りした石原郁子のような才能に捧げる言葉であったろう。合掌。