『ジョディ』ルイス・チュノヴィック

 小生にも意中の女優さんが幾人かおります。スクリーンに映っているだけでキミはいいんだよ、と偏愛する女優さんもいます。

正直言って小生、ジョディ・フォスターのファンでない。だから思い入れの全然ないジョディに対する小生の視線は冷たい、であろう。いわれもなく厳しい、かも知れない。ゼロからではなくマイナス評価から読みはじめたのだ。
 『タクシー・ドライバー』のヘソだしホットパンツの娼婦役ジョディを公開時に観ている。オタク分裂気味の青年につけまわされている役どころの『ファイブ・コーナーズ』はビデオでみた。意地っ張りだが身持ちの悪い女を演じた『告発の行方』や、『羊たちの沈黙』の鋭利な演技には無論、関心しているけど、『ネル』は趣味でないし、『王様と私』の焼き直し映画における家庭教師役はデボラ・カーの方が華がある。『ダウンタウン物語』や『ホテル・ニューハンプシャー』も観ているけどジョディ、出ていたっけ……という曖昧さ。たぶん、ナスターシャ・キンスキーを観ていたんだろう。あぁ、『コンタクト』も観たな。しかし、なんだかんだ数えたらジョディ出演映画、けっこう観ているではないか。つまり、これがジョディの位置、存在感というものかもしれない。本書はその「位置」、「存在感」の拠って立つ在り処を教えてくれる。
 すこぶるオーソドックスでケレン味もなく年譜時系列的にジョディの成長を追う。著者は本書のためにジョディにインタビューをしていない。求めてもジョディは断ったはずだし、客観性を維持するには、むしろ親密にならない方が良いのかもしれない。その代価行為としておそらく膨大な資料が蒐集されたことだろう。その腑分けの腕はなかなかのもので、文体に自信を与え、それが読ませるリズムとなっている。ジョディのファンでない読者にはありがたい。
 しかし、そのリズムも『タクシー・ドライバー』を語る章で乱れる。〈ヒンクリー事件〉に関わる一章だ。映画で〈娼婦〉ジョディを偏愛してしまった25歳のジョン・ワーノック・ヒンクリー・ジュニアという男が、彼女の気を引くためにこともあろうにレーガン大統領を襲ったのだ。
 映画でいかれたタクシー・ドラバーを演じたロバート・デ・ニーロですら大統領候補の暗殺に失敗したというのに、ジョディに懸想した青年は現職大統領の左肺に銃弾を打ち込むことに「成功」してしまう。事実は小説(映画)より奇なり、である。逮捕され自殺防止用の独房に入れられた犯人の調査が進むつれ、ジョディの存在そのものが焦点となった。ジョディの存在は青年の心のなかで増幅し、〈擬〉恋人となっていた。キューピットの矢を放つ、その露払いに大統領が犠牲となったようなものだ。本書では、この事件がトラウマとなったジョディについて触れるけど、裂けた傷の深さを掘り下げてはいない。〈ヒンクリー事件〉は重要だが、女優ジェディを書く、という基本姿勢を逸脱しない。〈事件〉そのものは米国現代史の一項目となってよいものだ。それは適任者に任せた、自分はあくまで女優ジョディを丹念に追走することで、〈事件〉を癒してゆく人間ジョディを定点観測するという態度だ。そして、仕事ではまったく動じることなく「最高」の演技をみせつづけるジョディを語って、〈事件〉を克服していく快癒過程とする。そういう書き方はとても好感がもてるものだ。
 正直に書くが、本書を読了した後、『タクシー・ドラバー』と『告発の行方』をビデオで見直した。これに思い出せる映画のジョディの衣装姿を記憶の襞から手繰り寄せる。そこで再確認するのだが、あらためて実年齢の前後数年というフレームのなかで、その都度、さまざまな女の人生をスクリーンに再現してみせた演技力に感心するのだった。けれど、ジョディの演技が光るのは〈現在〉という時間であって、シャム王朝時代に投げ出されると役作りの作為が出てしまう。つまり、自分の成長を促す〈現在〉という時のなかで、特等級に輝き出すスターであるということだ。……とは理解しても、やっぱり今後もジョディの映画を積極的にみることはないだろう。『アンナと王様』は確か、アカプルコの映画館で観た。メキシコ・シティに帰るバスを待つ時間があったから涼を求めて入ったのだ。チョウ・ユンファのシャム王がよかった。メキシコの映画料金は最新設備の映画館でも昼間なら400円もしない。マクドナルドで時間を潰すより割安なのだ。